追悼!気骨の考古学者・森浩一氏

考古学者 森浩一さんが8/10に無くなられました。「考古学は地域に勇気を与える!」と言ってきた気骨の学者でした。

また、考古学と文献史学の融合を目指して「古代学」を提唱しながら、「考古学は町人の学問である」として、地道な地域研究こそ重要だと主張し実践していた方でした。

確かに歴史を掘り起こすことは、地域に勇気を与えます。私も微力ながら地域の古代史を掘り起こしながら考古学と天文学等の融合を図り地域活性化・人間活性化を目指したいと思います。

森氏の言うように、別に民間人が考古学を研究してはいけないという縛りはありません。
それぞれの住民が、自らの地域を愛し歴史を掘り起こして行けば、より素晴らしい国になるのではないでしょうか?

森氏のご冥福をお祈りします。合掌!

—-読売新聞2013/8/10—————-

 著作や講演で古代史の魅力を紹介し、ブームを先導した考古学者で同志社大名誉教授の森浩一(もり・こういち)さん=写真=が6日午後8時54分、急性心不全で死去した。85歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は妻、淑子(としこ)さん。後日お別れの会を開く。

 大阪市生まれ。高校教諭を経て、1965~99年、同志社大で教べんを執り、多くの研究者を育てた。

 立ち入りが制限されている天皇陵について、航空写真や出土埴輪はにわを活用して検証。推定した築造年代と比定される被葬者の矛盾を指摘し、公開を求めた。

 また、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏から下賜されたとの説もある三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうについては、主流の中国産説に反対し、国産説を主張。定説にとらわれない姿勢を貫いた。

 その一方で、「古代史の窓」「海から知る考古学入門」など、一般向けの書籍も多数刊行。遺跡が開発で危機に瀕ひんしている現状に警鐘を鳴らし、佐賀・吉野ヶ里など各地の遺跡の保存に大きな役割を果たした。

 2001年に腎不全で入院して以降、人工透析を受けながら遺跡を訪ね、最晩年まで執筆活動を続けた。

考古学は地域に勇気与える

 森さんの口癖は、「考古学は地域に勇気を与える」だった。若い頃から陵墓公開問題や遺跡の保存運動にかかわり、地域から歴史を見直す必要性を強調。「官僚学者が横行するようになった」と学界の現状に苦言を呈するなど、終生、考古学を愛し続けた、反骨の学者だった。

 弥生時代などに日本海側の地域が果たした役割にいち早く着目し、1981年から「日本海文化」をテーマにシンポジウムを10年以上にわたって開催。鳥取・妻木晩田むきばんだ遺跡についてもその保全運動を支援し、発掘調査からわずかな期間での国史跡指定につなげた。

 一方、「出た場所も状況もわからない遺物は、極端にいえば骨董こっとう的価値しかない」と、遺物にとらわれすぎる研究には批判的だった。予断を排して研究するため、仁徳天皇陵(堺市)を「大山だいせん(大仙)古墳」とするなど、地名にちなむ名称へと呼び替えることを提唱、後に考古学界の標準となった。

 歯に衣きぬ着せぬ論客として知られたが、交友関係は多彩だった。松本清張や司馬遼太郎ら作家とも親交があり、清張の文庫本に解説を書いたこともある。

 自らを「町人学者」と称し、各種の賞や表彰は辞退。生前、唯一もらったのは昨年の南方熊楠賞だけで、受賞に際して「熊楠は典型的な町人学者であり、賞はもらわないという原則を今回は捨てることにした」とのコメントを発表した。

 1941年、中学1年の時に初めて、自宅近くにあった須恵器の窯跡に足を運んで以来、晩年に至るまで訪ねた遺跡は「調査の記録」と題したノートに欠かさず書きとめてきたという。

「人間の考古学」貫く 
上田正昭・京都大名誉教授(日本・東アジア古代史)の話「視野も広く、モノを見るだけではない、人間の考古学に取り組んでいた。最近、著書(「敗者の古代史」)を出版して、元気になってよかったな、と思っていた矢先の訃報で、貴重な人材を失いショックだ」

個性的、優れた着想 
哲学者の梅原猛さんの話「邪馬台国畿内説が優勢な中で九州説を唱えるなど、常に野にあろうとした気骨の考古学者。個性的で優れた着想を持ち、はっきり的確に物を言う人だった」

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