高知・古神巨石群の謎!

今から30年以上前、高知県発信の情報が日本全国の古代史ファンを驚かせた。

高知県土佐山田市にある古神地区という入らずの山に巨大な巨石の石組(磐座)が発見されたのだ。

発見したのはその山の持ち主でホテルのオーナー・樫谷義広氏である。
(それらの経緯は土佐文雄氏が「古神・巨石群の謎~邪馬台国は土佐にあり」にまとめられた)

もともと古神の山は全山笹に覆われていた。笹は数10年に一度枯れるという。

その笹が70年ぶりに枯れた時、これまで隠されていた謎の巨石群が姿を見せたのだ。

組み合わせれた巨石は高さ20m、幅100m。

頂上に大きな兜岩があり、右の柱、左の柱に支えられている。
正面が巨大な岩戸となっている。

樫谷氏はこの巨大な磐座を邪馬台国・卑弥呼の居城・祭祀場ではないかと推定した。

また、大きな夫婦の亀石もある。

5mほどの巨大な亀形の石が重なりあっって配置されているのだ。
それには尻尾や目も彫られているとのことだ。

目を細め正にクライマックスを表現しているとのことだが、「亀は万年」。子孫繁栄を表しているのだろうか?

亀石は白石の鼻巨石群でもあるが古代遺跡には良く出てくる。
(僕的には亀石は「時間」を象徴しているとも考えているが。。)

亀石の上部には大きな石が真っ二つに割れている巨岩がある。

その巨岩から正午に差し込む太陽光が亀石を照らすのだ。

樫谷氏は私財を投入してこの山に専門家や技術者を逐次投入。

この巨石群が単なる自然の造形ではなく、古代人の手が加わったものだという結論に至ったという。

http://blogs.yahoo.co.jp/bhknj932/17991294.html
(※まだ、私は訪問しておりませんので写真等は「サンタのブログ」さんのページをご覧ください)

このエピソードは当時の高知に同時多発的に、シンクロニシティ現象を引き起こした。

高知県は当時、高知空港拡張工事のためその対象区域になる田村遺跡の発掘調査を8億円もの資金を投入して実施。

その結果、全国でも有数な弥生時代の大集落や水田跡がが発見されたのだ。

水田跡では当時の弥生人の足跡もそのままの形状で発掘された。

卑弥呼の時代を遡ること数百年の紀元前後の遺跡だ。

現在でも二毛作ができる温暖な土佐・高知が日本の稲作の発祥地だったとしても可笑しくはないでしょう。
(昨年4月、高知に調査にいったおり既に田植えが終わっており驚いたものです)

また、土佐の郷土史家、北岡南氏が戦後から約30年かけて記紀・万葉集を研究した集大成が「邪馬台国土佐説」が発表されたのだ。

北岡氏は記紀、万葉集に歌われた地域を順次、旅するうちに歌われた情景と全く違う地形、風景に違和感を感じたことが氏の研究の切っ掛けとなった。

土佐ではうまく説明がつくのだ。

北岡氏の説で秀逸なのは魏志倭人伝の解釈である。
記述されている言葉をそのまま素直に解釈していくという姿勢は評価できる。
(これは、先日、講演いただいた阿波古事記研究会の三村先生も強く主張されていることであるが。。)

魏志倭人伝で表記されている行程で不弥国まではどの説も大差はない。
(だいたい北部九州・大分県あたりと推定される)

不弥国から投馬国、邪馬台国への行程が問題になるのだ。
一般的には投馬国→邪馬台国と直線的に導いている。

南のかた。投馬国に至る。水行二十日。官を弥弥といい。副官を弥弥弥利という。五万余戸あり。
南のかた。邪馬台国に至る、女王の都する所にして水行十日、陸行一月。

北岡氏は不弥国起点説をとる。

大分から船で約20日で薩摩へ着く。そこからなお、南に行くのではなく。不弥国から投馬国、邪馬台国を並列で書いてるのだ。
大分から南へ10日で四国西南の港に着き、そこから四国の険しい山道を通り1カ月で邪馬台国に到達しているのだ。

直線的な行程ではく、ここで枝分かれさせている根拠としては、それまでの国へ行くのには「又」とか「次に」あるいは「行く」という字があるのだが、不弥国から投馬国、邪馬台国へは「南至投馬国」「南至邪馬台国」となっているのだ。

こう見たときは私は現在の船の航路図と似ていると思う。
現在でも例えばある港からの複数の航路線には至る港がかかれているのだ。

私はまだ、邪馬台国論については論評できるほどの資料を読み込んでいない。

しかし、阿波古事記研究会グループでも阿波国の山間部に邪馬台国はあったとの意見が強いし、以前読んだ三島明氏の四国中央を中心とする愛媛県宇摩地域の山間部にあったという邪馬台国宇摩説も魅力的だ。

現在の行政区域など近代の産物なので古代はもっと緩やかに国境はあっただろう。
従って四国3県に跨る四国山地の山上に古代国家があったのではないかという感覚をもっている。

しかし、北部九州から「南至邪馬台国、水行十日、陸行1月」なので東へ行く邪馬台国近畿説はまっ先に消えるだろう。

祭りの後

センセーショナルに全国を賑わかせた「古神巨石群の謎」「邪馬台国土佐説」それらの話を知る人はほとんど居なくなった。
土佐では「唐人駄場」「唐人石」の方が有名となった。

樫谷氏、北岡氏等の活動のうねりは何故、ストップしたのだろうか?

そこに歴史を取り扱う難しさがあると思う。

個人の情熱や資金力だけでは限りがあるのだ。

しかし、それでも彼らは本という形で、その思い、研究成果を繋いでくれたのだ。
(そこに至るドラマを作家の土佐文雄氏がまとめておいてくれた)

それらを無にせず、私も研究や探検を続けたいと思う。

我々は一体どこから来て、どこへ行くのだろうか?

P.S.個人的には弥生期の邪馬台国よりも、もっと古い根元に遡るような縄文期や古代文明の方が好きです。 古神巨石群も探検に行きたいと考えています。

カテゴリー: 高知県の巨石群 パーマリンク